【読書感想文】在るべき「私」を探して(是枝裕和『雲は答えなかった』)

 組織と個人の狭間で殺される人格がある。自身の良心や思想とは別に、構造的な力関係のなかで、言葉を飲み込んだり、何かを諦めたという経験は誰しもあるだろう。本書は、旧厚生省の役人・山内豊徳という人物の半生を通じて、個人としての自分の在り方を深く問うてくる。

 

 霞ヶ関の官僚と聞くと、機械的で冷たい印象を持つ。しかし、巨大な制度を所管している組織であったとしても、その中で働いているのはやはり感情を持つ生身の人間である。特に、物語の中で山内は人一倍、心の優しい思いやりのある人物として描かれている。そんな山内は、キャリアを重ねるにつれて、組織の役職として求められる人格と、個人としての人格が切り離し難くなっていく。職責を果たさんとすればするほど、個は埋没し、自分の心を静かに殺していく。組織の論理に従い、ルールに則って、勤めを果たすことができればどれほど楽だっただろう。だがしかし、そこに個人としての「私」は存在しない。そして山内は公と私という自己の抱える存在の矛盾に耐えかね、最終的に自死という形で結論を出す。

 
 山内の身に起こったことは、社会人として3年目の春を迎えんとする私にとって他人事ではない。なぜか。それは私自身が、山内と同じ「役人」という職業を選んだからに他ならない。山内が抱えた葛藤は、いつか私が臨むべき問題として、眼前に転がっているのである。それは自己の「存在の二重性」との向き合い方についての問題だ。人は仕事を通じて、個人を公に晒すことになる。原則として、人は自分の良心・良識に従い行動するものだが、その言動がそのものが組織を代表する公的なものとなるとき、それは一体誰のものになるのだろう。「私」は一体どこに在るのだろうか。これから長い職業人生を歩む私にとって、この問いは私自身の存在に関わる重要な問題として突き付けられた。そして、本を読み進めることで更に考えを深めることになる。
 
 山内と対照的な人物として、橋本道夫という役人が登場する。若き日の山内と共に日本の公害行政の礎を築いた橋本であったが、産業界からの圧力を受け、政策の方向性を大きく切り替える場面がある。橋本は公器としての行政の役割を重視し、論争の中で落とし所を見つけ、現実に行政を適合させていくという信条の下、役人としての役割を全うせんとする。そこには行政としての主体性や橋本自身の意思は介在しない。理想を描き、現実を押し上げようとする山内とは異なる職業人として描かれている。橋本が選んだ道は官僚としては正しかったのかもしれない。しかし、山内の良心はそれを許さなかった。
 
 この二人のコントラストは私に深い示唆を与えた。橋本のように組織や社会の器としての役割を全うする自分、山内のように理想を抱き仕事に向かう自分。現時点で、これらはただの思考された可能性である。いまの私はそのどちらでもない。どこへ行くのか、雲は答えない。
 
 いま、私は確かにここに在る。社会のために、この国の未来のために、自分を活かさんと役人を志した情熱はまだしっかりとある。だが、それと同時に恐れがある。本書で山内や橋本が置かれたような様々な圧力や、理屈ではやりきれない状況に陥ったとき、私は本当に「私」でいられるだろうか。おそらくだが、山内は「私」でいることを選んだのだろう。だからこそ、「山内豊徳」という一人の人間として死を選んだのだ。
 
 人生は長く、苦しい。悩み、もがき、模索しながら、在るべき「私」の姿を探していかなくてはならない。本書をいま読めてよかったと心から思う。山内と橋本という二人の役人像が、今の私の中にはある。どちらを答えにするのかは、私がこれから選択するのだ。雲は答えない。しかし、だからこそ、雲は深く問いかけてくる。私はどう在るべきか。職業人生を通じて、これから私は自分に何度も問い直していきたい。
 

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【テーマ:自分とは何か】「自分の木」と森を育てること

 最近、ある人に「あなたは森のような人」だと言われた。その人は旧くから自分のことをよく理解してくれている友人で、個人で対話の仕事を始めていた。近況報告も兼ねて対話のお願いをした。2時間ほど話した最後の振り返りにその言葉をもらった。
 
 思い返すと、学生の頃から、「木」のモチーフを大切にして生きてきた。社会の中で根をしっかりと張って、様々な知識や経験を水や光のように浴びて、幹を強く・太くしていく。そうして自分という木を育てていきたいと考えていた。また、それは他者に対しても当てはめて考えることができた。背の高い木や低い木、まっすぐ伸びる木や歪んで伸びる木など、それぞれの樹木ごとに個性をもって与えられた環境の中で、その木らしく成長していく。そんな風に人の生き方も実現できればよいと願っていた。
 
 木のイメージはいまだに自分の中にしっかりとある。しかし、そのイメージを掴んでから、早くも7年が経とうとしていた。住む場所も環境も大学生から社会人で大きく変わった。「森のような人」だという言葉をもらったことで、改めて自分について考えるきっかけとなった。
 
 「森」というイメージには、木々たちが育つための土台となる「土壌」と、様々な植物による「多様性」がある。土壌は様々なものを受け入れる器としての役割がある。そして、土壌が豊かでなければ、多様性を育むことはまずできないだろう。そのためには、異質な他者との対話や協働を通じて、自らの中に多様性を包含していくことも大切である。きつい仕事、喜びと哀しみ、様々な出会い、そうした清濁を併せ呑んで、豊かな人生を育んでいきたいと願うことは、則ち、様々なことを受容する土壌を育てることに似ている。私はいま、仕事や人との出会いなどを通じて、そうした多様性を孕む土壌を耕す途上にいるのではないだろうか。
 
 教育というのも木や森を育てることに通ずるものがある。現在、私は行政という立場から、子どもたちの教育を支える仕事に携わっている。それはまさに、子ども一人一人の木が伸び伸びと育っていくための環境整備に他ならないし、様々な特性・背景を抱える子供たちが安心して成長していけるような多様性を包摂する土壌を育んでいきたい。そんな私の理想論を、ゆっくりと聞いてくれたその人は、「森」というイメージで受け止めてくれたのかもしれない。
 
 大江健三郎さんの『「自分の木」の下で』という本がある。その中で幼少期の大江さんはお婆さんから、人にはそれぞれの「自分の木」があり、人の魂は生まれる時にその木の根方(根元)から自分の身体に入り、死ぬ時には魂は再びその木のところに戻ってゆくという話を聞く。大江さんは森に入り、もし大人になった自分に出会えることができたら、「どうして生きてきたのですか?」と質問をしようと思っていたそうだ。
 
 私はこの話を読んだとき、「ああ、おそらく自分も死ぬ時に同じ問いかけを自分にするだろうな」と思った。今際の際に、立派に育った自分の木を見せることで、その質問への回答としたい。そして、その木はただ一本で立っているだけでなく、周りには様々な種類の樹木や小さな芽と共に在りたいと思う。その姿を見た人が「豊かな森」の印象を持ってくれたら、何よりの幸せである。そんな人生のイメージを大切に、これからも「自分の木」をしっかりと育てていきたい。
 

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安曇野の公園で見つけた美しい木の下で。

【テーマ:2021年を迎えて】予定と偶然に生かされて

 思うとおりに一年を過ごすことができる人はいるのだろうか。新年に今年の目標ややりたいことを設定する人は多いと思う。私自身も毎年一年の目標を立て、年末にはまあ概ね達成できたかなと満足している。しかし、「思うとおりに過ごすことができた」と思うことはない。改めて考えてみるに、それはやはり人生というものが、「予定したもの」と「予期しないもの(偶然)」の混在によって成り立っているからだというに他ならない。

 

 2020年は多くの人にとって思うとおりにいかないことが多い一年だったと思う。1年前の今頃、新型コロナウイルス感染症が、世界にここまで広く、深く影響を及ぼすことを想像できた者はいない。例えば、私の知り合いで、春に大学を卒業し、新しい会社に就職を予定していた方は、入社後すぐに自宅待機で、夏頃まで一度も会社に出社することは叶わなかったという。新社会人としてのスタートに胸を膨らませていたところ、出鼻を挫かれてしまったことだろう。同じように、仕事や旅行で海外に足を伸ばしたいと思っていた人、晴れ舞台が延期・中止になってしまった人、会いたい人に会えなかった人など、予定していたことができなかった人は多いのではないだろうか。

 

 楽しみにしていた予定がひょんなことでなくなってしまうことは残念なことだ。思うとおりにいかないことを受け止めるには、心のエネルギーを消耗する。できることなら、予定どおり・予期していたとおりに事が進む方がよい。

 

 しかし、二十余年を振り返ってみて、予定したものだけで埋まった一年はない。適度に予期しないものが入り込み、それは出会いや経験となって今の自分を生かしていると思う。あの時、あの場所に足を運ばなかったら経験できなかったことや出会わなかった人がたくさんいる。有り難いことだと思う。いささか前向きすぎる考え方だが、思うとおりにいかなかったことそれ自体を失敗だと捉えないでほしい。

 

 また、「予定したもの」と「予期しないもの(偶然)」はバランスの関係にあると思う。例えば、自分自身でコントロールがつけやすい仕事やスキルアップなどは順当に積み上げやすく、そんなことに懸命に取り組んだ年は、予定と偶然が8:2くらいになるのではないだろうか。逆に、災害や感染症のような、そもそもの前提条件みたいなものを覆してしまう出来事があったとき、バランスは1:9くらいになるだろう。どちらがいいというのではなく、予定と偶然は組み合わさって在る。長い人生を想ったとき、この一年の予定と偶然のバランス、それ自体を味わい楽しむことが大切なのではないかと考える。

 

 他方、「予期しないもの」を予定するということもある。例えば、本屋に何気なく寄って、気になった本を見つけるといった類のものだ。私はこの一年でこの感覚がずいぶん強くなったと感じている。家にいると大抵のことは予定の範囲で済んでしまうことに気がついた。何気ない出会いが減ってしまった。もっと見知らぬ土地を訪ねてみたい。遠縁になってしまっている人と話したい。新しい人や、ものや、場所に出会ってみたい。思い通りにいかない一年を過ごして、今年はどんな一年になるだろうと夢想する。

 

 素敵な一年になるといい。予定と偶然に生かされていることに感謝し、有り難いことを大切にできる一年にしたい。

 

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(今月の写真について)

奥さんの文通相手から教えてもらった「ウイングスパン」というボードゲーム。イラストもコンポーネントも素晴らしい出来で、感動した。本文で家では出会いがないと言ってしまったが、そんなこともないなと思わせてくれる素晴らしい出会いだった。感謝。